函館地方裁判所 昭和46年(ヨ)145号 判決 1972年7月19日
債権者
佐藤峰子
代理人
高野国雄
下坂浩介
債務者
北海道電力株式会社
代理人
田村誠一
主文
一、債権者が債務者の従業員の地位にあることを仮に定める。
二、債務者は債権者に対し、昭和四六年一二月以降本案判決確定に至るまで、毎月一五日かぎり金三万二、〇〇〇〇円を仮に支払え。
三、債権者のその余の申請を却下する。
四、申請費用は債務者の負担とする。
事実《省略》
理由
一債権者が昭和四五年四月一日債務者に雇傭され、函館支店料金課料金係として勤務していたこと、債権者の父実が昭和四六年一一月四日債務者に対し債権者名義の退職願を提出したこと、債務者が同日直ちにこれを承認して依願退職を発令したこと(以下本件依願退職という。)および債務者が翌五日父実に金三万〇、八九六円支払つて債権者の同月分の賃金等の精算手続をなしたことは、いずれも当事者間に争いがない。
二<証拠>によれば、本件依願退職につき次のような事情が認められる。
1 債権者名義の退職願が作成された経緯
(一) 債権者は、昭和四六年六月ころから、職場の同僚等に影響されて反戦運動に深い関心を抱くようになつた。そして、同年一〇月中旬ころ、同月二一日に東京の日比谷公園で反戦集会が行われることを知り、当時十数日残つていた有給休暇を利用して、神奈川県川崎市登戸新町に居住する姉憲子を訪ねがてら、この集会に参加しようと思い立ち、姉の家に遊びに行くとの名目で同月一六日から同月二三日まで有給休暇を取り、同月一五日夜函館を発ち上京した。
(二) 債権者は、同月二一日午後六時ころから日比谷公園の反戦集会に予定どおり参加したが、同日午後九時半ころ右集会が示威行進に移行した際、兇器準備集合罪、公務執行妨害罪等の嫌疑で現行犯逮捕され、引き続き同月二四日勾留され、翌一一月一二日起訴処分を免れて釈放されるまで、目黒警察署に留置された。債権者は、逮捕勾留中、住所、氏名、年令、被疑事実等の一切について黙秘した。
なお、本件全疎明資料によるも、債権者の逮捕勾留の基礎となつた被疑事実の詳細、有無および有とした場合の情状ならびに不起訴理由等については明らかではなく、右逮捕勾留処分の適否については確たる心証を形成しえない。
(三) 債権者の母キミは、債権者が逮捕されたことを債務者に隠しておこうと考え、同月二三日債権者の直接の上司である債務者函館支店料金課料金係長福井弘(処下福井係長という。)に対し、「峰子が上京してすぐ肺炎にかかり、動かすことができませんので、休暇を一週間延長して下さい。」と申し出、福井係長は、これに対し診断書を提出するよう指示した。
福井係長は、母キミに対し、その後電話をかけたり、居宅を訪ねたりして再三にわたり診断書の提出を催促した。
(四) 債権者の両親は、福井係長の再三にわたる診断書の提出要求により、それ以上債権者の逮捕勾留の件を債務者に隠しきれないと考えたものと思われるが、同月二七日その居宅において、福井係長に対し、「実は峰子が一〇・二一の反戦デーに参加して逮捕勾留されましたが、黙秘権を行使しているためなかなか出所できません。ところが、峰子の兄が函館市内のある官庁の第一次試験に合格し、近く第二次試験を受けるのですが、この就職に差支えると困ります。そのためにも、また、峰子本人の将来のためにも是非一つ穏便に会社をやめさせて下さい。川崎にいる峰子の姉が病弱なので、その看病のために峰子は川崎のほうに置きたいと思います。」と申し出た。
債権者の両親が右のような申出をなしたのは、その話の中に出てくる「穏便」なる語、後記認定のとおり異常とも言えるほど迅速かつ強引に債権者に退職願に押印させたこと、本件依願退職を喜こんでいたこと等から判断して、債務者が債権者の逮捕勾留の事実を知つたならば、債権者を懲戒解雇するであろうと考えたからであることは明らかである。
福井係長は早速右申出をほぼ正確に上司に報告した。
(五) 父実は、債権者の意思を確認することなく、勝手に債権者名義の退職願を作成し、同月二八日夕刻、自己の職場に来た福井係長に対しこれを提出し、(その際福井係長の要望により、父実の名も連記した。)再度穏便に債権者を退職させて欲しい旨申し出た。福井係長は、翌二九日朝上司にその旨報告し、この退職願を提出した。しかし、債務者は、このような退職願では本人の意思が十分確認されないとの理由でこれを受理せず、函館支店武市料金課長(以下武市料金課長という。)を通じて父実に返却した。
なお、証人福井弘は、同人が父実から右退職願を受け取つた際、父実に対し、「デモに参加して逮捕勾留されたぐらいで会社をやめることはない」と述べた旨証言している。しかしながら、右退職願返却後債権者の両親が本件退職願作成のためにとつた後記認定のような迅速かつ強引な措置およびその当日わざわざ前記認定のとおり退職願に父実の名をも連記させた福井係長の態度ならびに債権者の逮捕勾留の基礎となつた被疑事実の詳細および有無等について福井係長が的確な知識を有していなかつた事情等を勘案すると、右証言部分は到底措信し得ない。
(六) 父実は、右の退職願を受理して貰えなかつたため、やむなく、債権者本人の退職意思を確認すべく同月三〇日夜東京に向かつた。そして、翌一一月一日、一足先に上京していた母キミとともに前記目黒警察署の取調室において債権者と接見した。
父実は、債権者に対し、「このままでいると懲戒解雇になるので、その前に退職願を出して依願退職したほうがよい。」「懲戒解雇になると慎一の就職に差支える。」「憲子が倒れたから早く出て看病しなさい。」などと言つて、依願退職することを勤め、自分が予め作成しておいた債権者名義の退職願と印鑑を取り出し、退職願に押印するよう求めた。しかし、債権者が容易にこれに応じなかつたので、父実が債権者に印鑑を握らせ、債権者が退職願に押印することなくそのまま机の上に置くといつたことが再三繰り返された。債権者の抵抗の姿勢が頑強のため、母キミは、哀願的態度をもつて、前記の如き退職願を提出する必要性を繰り返しながら、説得しようと試みた。当時債権者は、満二〇歳になつたばかりであり、もとよりそれまで逮捕勾留されたことがなく、既に一〇日間に及ぶ拘禁生活と連日の取調により精神的、肉体的に極めて疲労していた。加えて、懲戒解雇になつたことより生ずる兄慎一の就職への悪影響等を考えると、拒否的態度を示していたものの内心態度決定に迷つていた。このような状況の下で、母キミは、債権者に対しやや強引に印鑑を握らせ、その上から手をそえ、二人で印鑑を握るような形で退職願に押印させた。
(七) 翌二日朝、父実および母キミは、再度債権者と接見し、父実は、債権者に対し、「昨日押印した退職願を会社に持つていつて出すけれどもいいんだな。」と言つて債権者の意思を確認した。これに対し、債権者は、債務者会社を自ら退職する気持はなかつたが、懲戒解雇になつて兄慎一の就職に支障をきたすことをおそれ、自己の意思を貫徹することを諦め何も言わず、ただ軽く首を縦に振つた。
(八) 函館に帰つた父実は、同月四日の午前中、早速右の退職願(疎甲第一号証)を債務者に提出した。債権者側は、父実の話によつて、債権者本人の退職意思は十分確認できたものとして扱い、直ちに依願退職を発令した(以上の事実は当事者間に概ね争いがないところである。)このとき父実は依願退職できたことを喜こんでいた。
2 退職願作成後債権者の採つた措置
(一) 一方債権者は、右の如く退職願に強引に押印させられた日の翌々日である同月三日、山崎弁護士と接見したが、その際同弁護士から「貴女の会社の就業規則はよく分らないけれども普通それくらいでは懲戒解雇になることはありません。」と言われ、懲戒解雇にならないかも知れないことを知り、早速同弁護士に、「両親が退職願を提出しても自分が行くまで退職手続を進めないよう会社に連絡して欲しい。」と依頼した。
同月五日同弁護士は西内次長に対し、電話でその旨伝えた(このことは当事者間に争いがない。)。
(二) 同月九日債権者は、山崎弁護士と接見しその際同弁護士に対し、「公文書で両親の提出した退職願を撤回して欲しい。」と依頼した。右依頼を受けた同弁護士は直ちに同日付の内容証明郵便を債務者に送達した(このことは当事者間に争いがない。)。
(三) 債権者は、同月一二日釈放され、同月一四日函館に戻つた。同月一五日の午前中、債務者会社に出勤したところ、上司から既に依願退職しているとの理由で就労を拒否された。
3 債務者の態度
(一) 債務者は、同年一〇月二七日、福井係長を通して、債権者の逮捕勾留の件を知つた。福井係長は、この日以来、この件について自己の知り得たことをほぼ逐一上司に報告し、上司の指示に従つて行動した。なお、福井係長は、債権者の両親との再三にわたる応接によつて、債権者の依願退職の意思表示は、両親が懲戒解雇をおそれる余り、もつぱら両親の発意によつてなされたものであることを十分認識しており、また、福井係長は、右の事情を逐一上司に報告していたものと推認される。
(二) このとき以降、債務者函館支店においては、支店長、次長、労務課長、料金課長らが折をみて債権者の処遇等について協議したが、結論がでるに至らず本件依願退職の発令となつた。本件全疎明資料によるも協議の過程においていかなる処遇が考慮されていたかは明らかでないが、前掲各証拠によれば、債権者を懲戒解雇という重大な処分に付すべきであるとする意見はなかつたものと推認される。
(三) 債務者は、山崎弁護士からの前記の電話や内容証明郵便を受領したにもかかわらず、正当に依願退職を発令した以上再考の余地なしとの理由で債権者の退職の件を再検討しようとしなかつた。
三右認定事実によれば、債権者が昭和四六年一一月一日、本件退職願に押印した状況のみを考慮すれば、債権者に依願退職の意思表示があつたとはにわかに認め難い。しかしながら、翌二日実が前記退職願提出の是非を債権者に確認した際、債権者は軽く肯くだけで退職願の提出について何ら異議を述べていないのであつて、遅くともこの時点において依願退職の意思表示があつたものと認めるのが相当である。すなわち、債権者は、同日、父実が自己の代理人ないし使者として、債務者に対して依願退職の意思表示をなすことおよび債務者から依願退職の意思表示を受け、賃金等の精算手続をなすことを承認したものと認められる。
したがつて、債権者は、本件依願退職に関し、債権者の代理人ないし使者である父実を介して、同月四日債務者に対し依願退職の意思表示をなしたものといわざるを得ない。
よつて、右意思表示が不存在であるとの債権者の主張は、採用し得ない。
四前記認定事実によれば、債権者が右意思表示をなしたのは、もしそれをなさなければ、債務者から懲戒解雇され、その結果、兄慎一の就職に悪影響を及ぼすことになるであろうこと等を苦慮したためであることが明らかであり、また、債務者は、債権者が懲戒解雇になるのをおそれて右意思表示をなした事情を十分把握していたものと推認される。
ところで、債権者の逮捕勾留の基礎となつた被疑事実の詳細、有無および有とした場合の情状ならびに不起訴理由等が不明であること前記認定のとおりであるが、不起訴処分になつたことから判断して、債権者が反戦集会に参加して逮捕勾留されたという事実のみを根拠として懲戒解雇されることは通常あり得ないと思料される。現に、前記認定のとおり債務者函館支店における協議に際し、債権者を懲戒解雇処分に付すべきであるとする意見はなかつたものと認められるのであつて、債権者が依願退職の意思表示をした当時、債権者には懲戒解雇該当事由がなかつたものと認められる。そうすると、債権者が債務者に対し本件依願退職の意思表示をなした際、債権者にはこれをなさなければ懲戒解雇処分にされるという自己の法的地位についての重大な錯誤があり、右債権者の動機は、黙示的に債務者に表示されていたものといえるので、右意思表示には、民法第九五条の法律行為の要素の錯誤があつたことになる。よつて、右意思表示は無効である。
したがつて、右意思表示に基づいてなされた本件依願退職は、債権者のその余の主張について判断するまでもなくその前掲を欠く無効のものといわざるを得ない。
五以上により、債権者は、昭和四六年一一月四日以降もなお債務者の従業員たる地位にあるというべきであるが、債務者は、前記認定のとおり同日以降債権者が依願退職したとの理由により従業員である債権者の労務の受領を拒絶している。
してみれば、債権者は、同日以降債務者に対して賃金支払請求権を有することになる。
証人大原雅夫の証言によれば、債権者の両親が債権者の代理人ないし使者として債務者から受領した金三万〇、八九六円中には、債務者の昭和四六年一一月分の賃金の一部が含まれていることが認められ、右認定に反する証拠はない。しかがつて、債権者は、昭和四六年一一月分については、当事者間に争いのない基本給金三万二、〇〇〇円から右支払済みの金員を控除した残額の、また、同年一二月分以降については、各月右基本給金三万二、〇〇〇円の賃金支払請求権を有することになる。
六そこで進んで、本件仮処分の必要性の有無について判断するに、前掲疎甲第二号証および債権者本人尋問の結果によれば、債権者は、両親の家から債務者函館支店に通勤していたが、本件依願退職の件で両親と仲違いし、昭和四六年一一月一五日以降一人で下宿生活をし、格別の資産も定期的収入もなく、臨時雇等による収入および「債権者を守る会」からの義援金によつて僅かに生計を立てていることが認められ、右認定に反する証拠はない。
そこでまず、昭和四六年一一月分について審按するに、債権者が同月一二日まで勾留されていたこと、債権者から同月分の賃金の一部を受領済みであること等を勘案すると、同月分の残額の賃金支払請求権については、前記認定の退職処分後の債権者の収入状況等を考慮しても、仮処分の必要性を肯認することはできない。
つぎに、同年一二月以降の分について審按するに、前記認定の債権者と両親との気まずい親子関係、債権者の資産状況、収入状況等を勘案すると、同月分以降の賃金支払請求権については仮処分の必要性を肯認することができる。
七以上により、本件仮処分申請は、債権者が債務者の従業員の地位にあることを仮に定めることを求める部分および昭和四六年一二月以降本案判決確定に至るまで毎月一五日かぎり金三万二、〇〇〇円の仮払いを求める部分は理由があるからこれを認容し、債権者のその余の申請(同年一一月分の賃金仮払い申請)は失当として却下することとし、申請費用の負担につき民事訴訟法第八九条、第九二条但書を適用して、主文のとおり判決する。
(新海順次 原田和徳 伊藤剛)